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福岡高等裁判所 昭和32年(ネ)389号 判決 1963年2月27日

判   決

控訴人

大岩徳次郎

右訴訟代理人弁護士

中村健太郎

平野光夫

被控訴人

株式会社佐賀銀行

右代表者代表取締役

手塚文蔵

右訴訟代理人弁護士

松下宏

和智昂

和智龍一

右当事者間の昭和三十二年(ネ)第三八九号定期預金支払請求控訴事件について左のとおり判決する。

主文

原判決を左のとおり変更する。

被控訴人は控訴人は控訴人に対し金千万円及び内金五百万円に対する昭和二十九年一月二十一日より同年七月二十一日まで年三分六厘の割合による金員、内金五百万円に対する同年二月三日より同年八月三日まで年三分六厘の割合による金員並に金千万円に対す同年八月十四日以降完済まで年六分の割合による金員を支払え。

控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、原判決を取消す、被控訴人は控訴人に対し金千万円及び内金五百万円に対する昭和二十九年一月二十一日より同年七月二十一日まで年三分六厘、同年七月二十二日以降完済まで年六分の割合による金員、内金五百万円に対する同年二月三日より同年八月三日まで年三分六厘、同年八月四日以降完済まで年六分の割合による金員を支払え、訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とするとの判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述、証拠の提出、援用及び認否は、控訴代理人において

一、本件第一預金証書(甲第一号証)の預金の利息起算日は昭和二十九年一月二十一日、同第二預金証書(甲第二証書)の預金の利息起算日は同年二月三日であり、約定利率はいずれも年三分六厘である。

右各預金の支払期日以後は年六分の割合による法定遅延損害金の支払を求める。

二、原判決二枚目裏八行目中「、嘉久大石炭から月一分の金利」とあるを「の裏金利」と訂正する。

三、控訴人は昭和二十八年一月初頃、当時嘉久大石炭の代表取締役であつた訴外三野道夫から「嘉久大石炭と取引関係がある唐津採炭株式会社から、同会社が佐賀中央銀行にもつている融資の枠が既に一杯となつており、このままでは会社運営に困るので、この際誰か同銀行に千万円程度を預金してもらえば、融資の枠も拡げられるので、控訴人に預金するよう是非たのんでもらいなさい、といつてきている、ついては何とか預金をしてもらえないか」という意味の懇請を受けたので、控訴人は三野と話合の結果これを承諾し、同年一月二十一日(乙第五号証の一)と二月三日(乙第六号証の一)に各金五百万円、同年四月中旬三回(乙第五、六、七号証)に合計金一千万円の無記名定記預金をなした。

四、控訴人は最初二口の預金には「秀子」の印を用いたが、これを書替えた昭和二十八年十一月十八日の預金(乙第十一、第十二号証)に際しては控訴人所有の印字の判読しがたい二個の印章を銀行の用紙に押捺してその届出をなした。

五、預金証書の書替継続は、銀行の事務的処理においては預金の払戻と新しい預金の受入れの形式をとるが、現実には金員の授受を行わず、実質的には書替えられた証書に表示された預金は従前の預金と同一性を失わない。

六、本件預金は控訴人が自己の預金とする意思で自己の出損をもつて預入をなし、届出印章並に預金証書も控訴人がこれを占有し、最初の預金に対する金十万円の当せん金その他割増金利息等も控訴人が支払を受けた。

七、嘉久大石炭が被控訴銀行に対し三口合計金千万円の通知預金をしていて、これが払戻を受けたこと及び嘉久大石炭が唐津採炭から石炭を買入れ、その代金の支払方法として約束手形を振出し、唐津採炭の社長である訴外志垣義雄が同会社より右手形の裏書譲渡を受け、これを佐賀中央銀行相知支店で割引を受けていたことは認める。銀行が手形割引をする場合には割引依頼人だけではなく振出人その他手形関係者の資産信用を重視するものであるから、志垣は割引を受ける都合上嘉久大石炭に懇請して右の通知預金をさせたものである。

右通知預金の内金五百万円は嘉久大石炭が取引先から受領した商業手形を取引銀行で割引した金員をもつてこれに充て、残りの金五百万円は京神不動産株式会社から借受けた金を預け入れたのである。

右の通知預金は志垣が割引を受けた嘉久大石炭振出の手形の裏づけ又は見返りのごとき関係でなされたものでは断じてない。通知預金は定期預金と異り一時的な預金であるから、手形割引の見返りとはなりえない。

八、本件定期預金は前記通知預金の補充でないことは、通知預金の送金主が嘉久大石炭である(乙第一、二号証の各二、乙第三号証の二、三、四)のに反し、定期預金の送金主は三野道夫又は大北幸平である(乙第五号証の二、三、乙第六号証の、三、四)ことによつても明らかである。また本件定期預金が右通知預金の振替であるなら、昭和二十八年一月十九日大阪からわざわざ金五百万円を送金(乙第五号証の二、三、四)せずに翌二十日払戻を受けた金二百五十万円の通知預金との差額を送金すればよいわけである。しかるに五百万円全額を送金したのは、とりもなおさず通知預金と定期預金とでは預金者が全く別である証左である。最後に残つた通知預金二百五十万七千六百二十円を同年二月二日払戻を受けているのにも拘らず、その前日に金五百万円を大阪から送金している事実も同様のことを物語つている。

九、乙第二十二号証の二、三に「嘉久大石炭」と記入してあるが、この記入は後日でもなしうるものであり、かりに当時記入されたものであるとしても預金者が控訴人でないという証拠にはならない。

一〇、一般の銀行で無記名定期預金を担保にとる場合には、届出印章をもつて担保差入証に捺印させ、預金証書を預かるか、それとも無記名定期を記名の定期預金に変えた上で、記名者本人に担保差入証を提出させ、預金証書を預かるのが普通である。然るに昭和二十八年七月二十九日附の担保差入証(乙第十四号証)は右のいずれの方法にもよらず、届出印章と異る即章を用いたもので、印章について特に厳格な銀行の処置とも思えない異例のものである。

これは同号証が形式的に作成された仮装のものであるからである。

と陳述し、(証拠―省略)被控訴代理人において

一、控訴人は昭和二十六年十月設立された嘉久大石炭株式会社の実権者であり、会長と称していた(乙第二十八号証の六、乙第二十九号証)。また後に嘉久大の代表取締役となつた大北幸平は控訴人の個人的秘書である。

嘉久大という商号は控訴人の氏の頭字である大という字を角の中に入れて「かく大」と称し、縁起の良い字をあてはめて嘉久大としたものである。

嘉久大石炭の手形は控訴人の許可なしには発行できなかつた(乙第十三号証、乙第二十五ないし第二十五号証、山本、三野の証言)。嘉久大の株は実質上殆んど控訴人のものである。以上の各事実によれば控訴人と嘉久大石炭とは経済的には同一人格である。

二、甲第一、二号証の定期預金証書はいずれもその右欄に記載されているごとく書替継続されたものである。

三、被控訴銀行は当初から割引手形の信用裏付として長期預金を要求していたので、通知預金よりも定期預金の方が望ましいので、一たん通知預金の払戻に応じ、直ちに一千万円の定期預金(乙第五、六号証の各一)をしてもらつた。すなわちこの払戻しと預け入れの関係から見ても本件定期預金は嘉久大石炭の通知預金を振替えたものであることが判る。

四、本件通知預金並に無記名定期預金は嘉久大石炭振出の手形を割引く際の嘉久大石炭の信用裏付になつているものであつて、いわゆる導入預金ではない。導入預金とは「預金の受入に関連して預金者以外の特定の第三者に融資することが約され、かつ当該預金者が特別の金銭上の利益を取得する三角関係にある預金」のことである。また導入預金は担保として提供されず、従つて信用裏付にもならない。

五、乙第五号証の一の定期預金は昭和二十八年一月十九日嘉久大の代表取締役である三野道夫が第一銀行大阪支店に依頼して受取人を志垣義雄として唐津支店に電送した金で預入れられ、また乙第六号証の一の預金は同年二月二日嘉久大の代表取締役である大北幸平が三和銀行梅田支店に依頼して受取人を志垣として唐津支店に電送してきた金で預入れられたが、このことは嘉久大石炭が明示又は黙示的に右各預金が自己の預金であることを表示したことになる。

六、本件預金が嘉久大石炭のものであればこそ、慣例に従つて被控訴銀行の帳簿又は手控に預金者は嘉久大石炭である旨メモされているのである(乙第十九ないし第二十二号証、乙第三十八ないし第四十号証、乙二十四号証の一、三、石崎、進藤、高田証言、八島鑑定)。

七、乙第十四号証の差入れてもらつたとき権利質権設定を目的として定期預金証書の交付を求めたが、その時三野は証書を所持しておらず、後日証書の交付を受け得なかつたので、結果的には正式の質権設定はできなつた。しかしこれを差入れたとこによつて本件定期預金が見返担保(信用裏付け)であることを一層明確にしたわけである。

昭和二十八年六月二十二、三日頃嘉久大石炭の三野専務と山本取締役が唐津市に来て幸楽荘に宿泊の節、佐賀中央銀行唐津支店長西哲、次長川添実、西唐津支店長石崎金義の三名が訪問して金二千万円の定期預金について正式の質権設定手続をなすことを要求した。その際三野、山本は、嘉久大石炭が唐津採炭に渡している手形のうち実質的債務のあるものは金千七百万円であるから、この範囲の手形に対しては預金を担保に差入れるという一札を書いてもよいが、正式担保差入手続についてはここで決められないと回答した。その後同年七月上旬頃唐津採炭の高岡を通じ右定期予金を担保に入れる旨の念書差入れで了承してもらいたいとの申出があつたので、被控訴銀行はこれを承諾し、同年七月二十九日唐津支店長室で第十四号証を作成して差入れさせた。

八、無記名定期預金の預金者の認定については、現実に金員の預入を手続をしたもの、そのものが用いた印鑑表示のものが常に預金者とは限らず、何人が客観的に存在する預金者であるかということは各場合の事情によつて異ることは控訴人主張のとおりであるけれども、単に金を出損したとか、届出印と証書を所持しているということだけで、そのものが預金者であると断定することはできない。

と陳述し、(証拠―省略)た外、原判決事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。

理由

株式会社佐賀中央銀行が昭和三十年七月十日株式会社佐賀興業銀行と合併して被控訴銀行を設立し、同月十一日その登記を了し、被控訴銀行が佐賀中央銀行の権利義務一切を承継したこと、控訴人が佐賀中央銀行(以下便宜被控訴銀行と呼ぶ)発行の第二十五回第三組番号一三四番、発行日昭和二十九年二月五日、証書面金額五百万円(一口千円五千口)、元利金支払期日同年七月二十一日、利息起算日同年一月二十一日(以下便宜甲第一号証の預金証書と呼ぶ)及び同銀行同年二月五日発行の第二十五回第三組番号一三三番、証書面金額五百万円(一口千円、五千口)、元利金支払期日同年八月三日利息起算日同年二月三日(甲第二号証の預金証書と呼ぶ)と夫々記載された特別定期預金(無記名定期預金)証書各一通並に右各預金に際し銀行に届出られた(所定の印鑑票に押捺された)「溝口」、「富岡」と印刻した印章二個を所持し、期限後この証書に右印章で受領印を押捺してこれを被控訴銀行に提示し、右各預金の支払を求めたが拒絶されたこと、右定期預金のうち甲第一号証の預金は昭和二十八年一月二十一日発行、第二十回第五組番号一八〇番、証書面金額五百万円、元利金支払期日同年七月二十一日なる無記名定期預金(乙第五号証の一の預金と呼ぶ)を同年十一月十八日番号一五二二番、証書面金額五百万円、期日昭和二十九年一月二十一日、利率年五分なる無記名定期預金(乙第十一号証の預金と呼ぶ)に書替継続したものを更に切替えたもの、また甲第二号証の預金は昭和二十八年二月三日、第二十回第十組番号一番、額面五百万円、支払期日同年八月三日なる無記名定期預金(乙第六号証の一の預金と呼ぶ)を同年十一月十八日、番号一五二一番、額面五百万円、期日昭和二十九年二月三日、利率年五分なる同定期預金(乙第十二号証の預金と呼ぶ)に書替継続したものを更に切替えたものであり、右乙第五、六号証の各一の預金に際しては「秀子」と印刻した印章が届出でられ、また第一回書替に際しては印字分明でない二個の印章が届出られたこと、右各預金は無記名定期預金と呼ばれているが、それは単に預金証書面等に預金者を表示せず、銀行もまた預金者を知るを要せず、預金証書と届出印章を持参したものに支払をすることによつて免責されるという意味であり、従つて無記名債権ではなく指名債権の一種であること、以上の各事実は当事者間に争がなく、本件各定期預金の期限内利息の起算日が控訴人主張のとおりであり、またその利率が年三分六厘を下らないことは(証拠―省略)によりこれを認めることができる。

よつて本件各預金の預金者が控訴人であるか、それとも訴外嘉久大石炭株式会社であるかを考える。

控訴人がかつてその取締役であつた訴外嘉久大石炭株式会社は訴外志垣義雄が社長である訴外唐津採炭株式会社より石炭を買入れ、その代金支払のため手形を振出し、志垣は唐津採炭よりこの手形の裏書を受け、これを被控訴銀行で割引いていたことは当事者間に争がなく、この事実に前叙のとおり控訴人が甲第一、二号証の預金証書及びその預金に際し銀行に届出た印章二個を所持していること及び最初の合計金千万円の預金に際し届出た印章は「秀子」という印であつた事実並びに(証拠―省略)を総合すれば、控訴人は嘉久大石炭株式会社の事実上の実権者であり、訴外三野道夫は右会社の専務取締役として営業面を担当し、訴外大北幸平は経理を担当し(両名は共同代表者である)、大北はまた控訴人の個人的秘書のような仕事もしていた、ところで訴外志垣義雄は被控訴銀行よりの割引融資の枠を拡げるため三野を通じ控訴人に対し金一千万円の定期預金を被控訴銀行にしてもらうよう依頼していたが容易に応じないので三野と同道の上控訴人を訪問し、重ねてこれを懇請したところ、当時導入預金が流行していたので、控訴人に対し志垣が月三分の裏金利を支払う(外に嘉久大石炭が月一分を支払う約であつたが、控訴人はこの分の支払を求めなかつた)ことで定期預金をすることに定まり、控訴人は自己の預金とする意思で、銀行に対する届出印章はいずれも妻秀子の実印を使用し、自分の金を出して、内金五百万円は昭和二十八年一月十九日三野の手で第一銀行大阪支店より志垣を受取人として被控訴銀行唐津支店宛電送し、(送金手続については当事者間に争がない。成立に争のない乙第五号証の二、三、郵便官署作成部分につき争がないから、爾余の部分も真正に成立したと認められる乙五の四)この資金で乙第五号証の一の定期預金をなし、同号証の預金証書を受取り、また残金五百万円は同年二月三日大北の手で三和銀行梅田支店より同じく志垣を受取人として被控訴銀行唐津支店宛電報送金し(当事者間に争がない、乙第六号証の二、三、四)この資金で乙第六号証の一の定期預金をなし、同号証の預金証書を受取り、控訴人は右二口の預金の割増金等を取得し、志垣と約定した裏金利も同人より支払を受けたことが認められる。

そうだとすれば右乙第五、六号証の各一の定期預金の預金者は控訴人であると認めるのが相当であり、そして本件甲第一、二号証の定期預金が右二口の預金を乙第十一、十二号証の預金に書替継続したものを更に継続したものであり、従つてその間預金者に変動がなかつたことは当事者間に争がないのであるから、本件甲第一、二号証の預金者もまた控訴人であるといわねばならない。そこで被控訴人の抗弁について判断する。

一、嘉久大石炭株式会社と控訴人、控訴人と三野道夫や大北幸平との関係は前叙のとおり密接な関係があり、この点について被控訴人が主張することは証拠上概ねそのとおりであると認められるけれども、さればといつて法律上事実上右会社と控訴人が同一人格であるとはいえず(それが事実ならば被控訴銀行は嘉久大に対する債権を控訴人に請求できるわけである)、またそのように認められる証拠もないから、この点に関する被控訴人の主張は正当でない。

二、乙第五、六号証の各一の預金をする際の送金手続について当事者間に争のない前叙事実に(証拠―省略)を総合すれば、右各預金に際しては、訴外大北幸平が訴控人の旨を受けて自己又は訴外三野道夫名義で被控訴銀行唐津支店ないし相知支店志垣義雄当座預金口座に電報送金し、志垣の番頭である訴外高岡政弘(唐津採炭の社員であり、同時に志垣の個人的秘書でもある)が志垣の小切手を作成してこれを被控訴銀行に交付して実際の定期預金の預入れを手続万端をすませ、なおその際使用した「秀子」の印は唐津採炭の社員が大阪に持参した印鑑票二通を三野が西宮市夙川の控訴人宅に持参して控訴人より押印して貰い、この印鑑票を三野が高岡と同道で相知支店に持参して被控訴銀行に交付し(乙第五号証の一の預金は唐津支店になされたようになつているが、その手続は相知支店でしたようである)、預金証書二通は三野が預り、これを直接か又は大北を介して控訴人に渡したこと、右二口の定期預金の二回にわたる書替については、いずれも大北が控訴人より印を預つて唐津支店に赴き、高岡に手続をして貰つた上で預金証書を貰い、これを控訴人に交付したこと、最初の預金の際も、また二回にわたる書替の際も、三野又は大北において預金者が何人であるかを明言せず、被控訴銀行側もこれを問いただすことはしなかつたこと、乙第七、八、九号証の無記名定期預金をする際は、大北が控訴人より現金千万円と印を預つて唐津支店に至り預金手続をしたのであるが、その時も預金者については話題に上らず、たゞ支店長が大北に対し「控訴人にお礼を言つてくれ」と述べただけであること、以上の事実が認められ右認定を左右するに足る証拠はない。右事実によれば乙第五、六号証の各一の預金の送金並に預入れに際し、明示又は黙示に預金者が三野又は大北の代表する嘉久大石炭株式会社であると表示したとは認めがたく、その他このような事実を認めうる証拠はない。

三、被控訴銀行の諸帳簿等に本件預金の預金者を嘉久大石炭とした記載があつても、無記名定期預金は銀行において何人が真実の預金者であるかを関知せず、証書の再交付等の場合を除いては銀行においてこれを探索する必要はないし、又探索すべきものでもないというのがこの制度を設けた趣旨であるし、また帳簿類にそのような記載があるのは、前叙のように本件預金手続に関与した三野又は大北が嘉久大石炭の取締役であつたこと、及び次に述べるような本件預金と嘉久大石炭の通知預金との関係から被控訴銀行が軽卒にも本件預金の預金者を嘉久大石炭と信じてそのように記載したのか、それとも将来真実の預金者を知る必要が生じた場合の手がかりとして一応預金者を嘉久大石炭と記載したのか、そのいずれかであつて、それ以上の意味があると認められる事実や資料はないから、このような記載があるからといつて前叙認定をくつがえし、預金者が被控訴人主張のとおりであると認めるに足らない。

四、嘉久大石炭株式会社が被控訴銀行に対し昭和二十七年十二月二日預入、金額二百万円、据置期間七日間以上(乙第一号証ノ一)、同月十六日預入、金額三百万円、外同上(乙第二号証ノ一)、同月二十二日預入、金額五百万円、外同上(乙第三号証の一)の三口の通知預金を有し、最初の二百万円は昭和二十八年一月七日、次の三百万円は同月十七日、最後の五百万円のうち金二百五十万円は同月二十日夫々払戻され、最後の預金の残額二百五十万円は利息を加えて即日二百五十万七千六百二十円の通知預金とし、これは同年二月二日支払われたこと、右各通知預金は志垣が嘉久大石炭に要請して、前記のごとく嘉久大振出の手形を被控訴銀行で割引を受ける便宜のため(預金があれば銀行は資金が豊富になり他に融資をしやすくなるということの外に、被控訴人主張のように手形振出人である嘉久大石炭の信用裏付けという意味もあると解してよかろう)嘉久大石炭に頼んで預金してもらつたものであることは当事者間に争がない。そして前認定のとおり本件預金の前身である乙第五、六号証の各一の無記名定期預金もまた志垣が嘉久大振出手形を被控訴銀行において割引してもらう便宜のため(控訴人と嘉久大との前叙のような関係からすれば、嘉久大の信用裏付けという意味もあると解せられなくはない)になされたものであるから、その限りでは右各通知預金と無記名定期預金とは似通つた事情の下に預入れられたと考えてもよいが、更に両者の関係についてくわしく、調べてみる。

(1)  (証拠―省略)によれば右通知預金のうち初めの二口五百万円は嘉久大石炭が自己の手持資金で預入れ、最後の五百万円は嘉久大石炭が訴外京神不動産株式会社(控訴人及び大北とこの会社との関係が深いことは嘉久大に勝るとも劣らない)から借入れた金でまかなわれたことが認められ、右認定を左右する証拠はない。

(2)  右各通知預金の払戻の日時、乙第五、六号証の無記名定期預金及びこれが切替預金並にこの無記名定期と預金者を同じくする(この点当事者間に争がない)乙第七、八、九号証の各無記名定期預金合計千万円(昭和二十八年四月十五、十六、十七の三日にわたり預入れ、いずれも同年十一月十八日支払われた―成立に争なき乙第十号証によれば内金五百万円は即日無記名定期に切替えられ、翌二十九年二月五日支払われたもののごとくである―ことは当事者間に争いがない)のそれぞれ預入れ日時との関係、なかんづく前記のように乙第三号証の一の通知預金のうち金二百五十万円が昭和二十八年一月二十日に支払われているのに、その前日十九日にわざわざ乙第五号証の定期預金の預入資金五百万円が大阪から唐津に電送されていることは、どちらかといえば右通知預金と乙第五、六号証の各一の定期預金の預金者が別個であるという資料にはなつても、同一である証拠とはなしがたい(もつとも融資の便宜のためという点からは、被控訴人のいうように入れ替え又は代替―原判決事実摘示―ないし振替―当審における主張―と考える余地はある)。

(3)  銀行が融資をする際、これを受けるもの又は第三者の預金預入れを希望し、その預金も普通預金や通知預金のような一時的なものよりも定期預金のような長期据置の預金を望むことは自然の勢であろうから、右通知預金をする際被控訴銀行において志垣に対しこのような長期据置預金の預入れあつせんを要望することはありえないことではなく、これに副う証言(原審大北一回その他)もあるけれども、さればといつて通知預金をする際銀行、志垣及び嘉久大石炭のうち二者ないし三者の間に右通知預金を定期預金に入れ替える確約があつたということを認めるに十分な証拠はなく、従つて当審並に原審証人(省略)が証言しているごとく、銀行側が当初又は通知預金後に定期預金の預入れを望み、志垣がこの要望にこたえたいと考ええていたからといつて、乙第五、六号証の各一の予金があらゆる意味で通知預金の代替であるとは即断できない。

以上説示のとおり、右通知預金と本件定期預金の関係は、預金者が誰かという観点からは、むしろこれを別個独立のものと解しえられても、被控訴人主張のように代替ないし振替の関係に立つものとは認められない。

五、昭和二十八年七月二十九日嘉久大石炭代表取締役三野道夫から被控訴銀行に対し、前記五通合計金二千万円の無記名定期預金(将来の書替え継続分を含む)を嘉久大振出、唐津採炭宛の手形(志垣が割引により被控訴銀行に交付した手形)債務のうち金千五百万円の限度において担保として差入れる旨の書面(乙第十四号証)を差入れたこと及び右担保差入れは無記名定期預金の届出印章の提出も預金証書の交付もなされずしてこれをなしたものであつて預金債務に対する質権設定でないことは当事者間に争がないが右書面差入れの事実から推せば、一見本件預金の預金者が嘉久大石炭であるようにも考えられないことはないから、この点について検討する。

(証拠―省略)を総合すれば、被控訴銀行は志垣に対し前記通知預金の頃からこれに質権を設定するよう希望していたが、当時は石炭景気のため深くはこれを求めなかつたところ、昭和二十八年夏頃水害のため唐津採炭が出炭不能となり危機に見舞われたので、被控訴銀行はあわてて乙第十四号証を嘉久大石炭に差入れさせ、志垣の割引手形につき嘉久大の支払義務の確認をうると共に、その前後頃三野道夫に対し乙第五、六号証の各一及び乙第七、八、九号証の定期預金に質権を設定するよう申出た、三野は預金者が控訴人であるから質権の設定はできぬと拒絶したが、当時嘉久大振出の割引手形は四千五百万円もの巨額に達し、嘉久大石炭もまた唐津採炭の運命に重大な利害関係がある上に、志垣において復興計画書を示し、今後一ケ月百五十万宛位は被控訴銀行に支払えるから嘉久大には迷惑をかけぬということであつたので、同年七月二十九日頃三野、志垣、高岡等が被控訴銀行唐津支店を訪れ、支店長西哲の面前で、右四千五百万円は石炭代金であり、また金千万円はかねて嘉久大が取引保証金の意味で同額の手張を融通していたので、以上合計金千七百万円を喜久大の責任分担額とし、残余は志垣が責任をもつと約定し、右嘉久大の責任範囲内で右定期預金を担保に差入れることを承諾し、乙第十四号証に三野が金額等を記入し署名の上これを被控訴銀行に差入れた、ところで当時西哲は右書面の三野名下の印と定期預金の届出印とが相違し、また預金証書の交付も受けないで、右書面の差入れでは正式に質権を設定したことにはならないことを知つていたが、本店に対する内部関係もあり(また唐津採炭の復興が必しも絶望ではなかつたとも考えられる)結局右書面の差入をもつて一応満足したことが認められ、右認定にそわない前記各証人の証言部分は措信しない。

そうだとすれば乙第十四号証を差入れたということも本件預金が嘉久大石炭のものであるという証拠にはならぬ。

以上各認定に反し、本件預金が前叙通知預金の継続であり、その預金者が控訴人でなく嘉久大石炭株式会社であるという被控訴人の主張にそう右証人(省略)の各証言は措信せず、他に被控訴人の抗弁を認めるに足る証拠はない。

そうだとすれば被控訴人に対し本件特別定期預金千万円及び内金五百万円に対する昭和二十九年一月二十一日以降同年七月二十一日まで、内金五百万円に対する同年二月三日以降同年八月三日まで夫々年三分六厘の割合による約定利息を支払う義務がある。

つぎに損害金の請求であるが、本件のような債権は証書を呈示して支払の請求を受けた時から遅滞の責があると解すべきであり(証拠―省略)によれば、控訴人が甲第一、二号証の裏面受取人欄に届出印章を押捺してこれを大北幸平を介し被控訴銀行に呈示して支払を求めたのは昭和二十九年八月四日以降同月十三日までの間であると認められるから、被控訴人は同月十四日以降遅滞の責があり、従つて右日時以降完済まで年六分(甲第一、二号証裏書の記載は期限内利息に関し、期限後の損害金の約定とは考えられず、また右預金の特質から見て約定利率により損害金を計算するのは当を得ない)の損害金の支払を求める部分は認容すべきであり、その余の損害金の請求は失当として棄却を免れない。

よつてこれと一部趣を異にする原判決を主文のとおり変更し、民事訴訟法第九十六条、第八十六条、第九十二条に従い主文のとおり判決する。

福岡高等裁判所第一民事部

裁判長裁判官 中 村 平四郎

裁判官 丹 生 義 孝

裁判官 中 池 利 男

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